限りあるイノチを何に使うか
多くの人が絶賛する「ボヘミアンラプソディー」を見てきた。
一言でいえば、「良かった」のだが、感じたことを自分のものにするためにも、もう少し深掘りして書いていきたいと思う。
まず、強烈に感じたのは「命には限りがある」ということだ。
当たり前の事実だけれど、このことを強く意識していきている人はどれだけいるだろうか。
フレディは45歳でこの世を去った。
でも、その短い人生の間に、はかりしれないものをこの世界に残していった。いや、今も残し続けている。
クイーンの歌詞にもあるように、
僕らの一生なんて歴史から見れば
ほんの一瞬にしか過ぎないだろう。
でも、この世に生まれたということは意味があるのだろう。
自分も考えた。
【短い一生の間に何を残せるのだろうか】
少し前から自分の中にあるのは、「自分の思想、想いを発信していきたい」ということだ。
何かの発信をすれば批判、避難されることがあるだろう。
でも、同時に同じくらいの賞賛、承認があるはずだ。
頭ではわかっている。
なのになぜか、本当に自分を応援してくれる人ではなく、批判を気にしてしまう。
で、ここでもう一度、クイーンの歌詞。
No time for losers cause we are the champion.
僕なりに和訳するなら、
ーーーーー
負け犬に構っている時間はない。
僕らはすでに勝者なんだ。
ーーーーー
という感じだろうか。
ここで大切なのは「勝者」と「負け犬」ということだが、「勝者」とは社会的に成功しているとか、お金をたくさん持っているということではない。
ここで言っている「勝者」とは、「自分の信念や想いをしっかりと持ち続けているひと。自分の大切なものを大切にできる人。それを表現できる人」と解釈した。
となると、一方の「負け犬」とは、「自分の信念を貫けない人。人のことを羨んでばかりの人。本当は大切なことがあるのに、できない人」と言える。
でも、本当は僕らは全員が勝者ではないだろうか。
理想論過ぎるだろうか。
映画の最後のシーンで何万人という人が一緒に歌うシーンがある。
あれはまさにそれぞれが、あらゆるしがらみや恐れを超えて、自分の中にある「何か
」を表現していたのではないだろうかと。
そういう意味で、音楽や芸術、スポーツが持つパワーはスゴイ。
コトバを介することなく、人々の意識を解放するのだから。
限られた命を何に使うのか。
どんなことに命を燃やすのか。
すごく抽象的な表現となるが、以下の4つが心に浮かんできた。
□愛する人に愛を伝える(今の僕なら、家族、奥さん、未来に生まれてくる子供、一緒に仕事をしているメンバー、自分を応援してくれているすべての人)
□未来の日本のために美しいもの(教育、景色、自然、文化、思想)を残す
□世界平和のために日本の思想、文化を伝える
□人々が勝者であることを思い出すために必要なものを届ける
「人生100年時代」と言われるけれど、いつ死ぬかはわからない。
それはおもいがけずやってくるかもしれない。
あのとき、ああしておけばよかったと思わぬように。
どうでもよいこと(なんとなくSNSを見る、人を羨んだり妬んだりする)に囚われて、大切なイノチを削らないように。
「大切なものはなにか」を感じて、愛を注いでいきたい。